[※サイトに対するご意見・ご要望・ご質問をお待ちしています]
[ホーム]  [同窓会登録・検索]  [協賛企業情報]  [国別情報]  [ランキング]  [フリーサポート]  [コミュニティ]  [掲示板一覧]

コミュニティ
ワーホリ体験談
  ・体験談募集
  ・オーストラリア体験談
  ・カナダ体験談
  ・ニュージーランド体験談
 オーストラリア体験談

掲載日:2011/6/22
ニックネーム = シミキヨ
国名 = オーストラリア
渡航年月 = 1996年9月

私は現在、40歳になります。今から15年前にワーホリにて、オーストラリアに一年間滞在しました。
当時の私はサラリーマンの生活に日々終われ、この先の人生何かひとつでもやり遂げたいと考え、
自分自身をリセットする意味でも海外生活にチャレンジしたかったのが、理由です。
一年間の生活で人の暖かみや、絆、親のありがたみ。たくさんの事を学びました。
一番の思い出は最後の2ヶ月で一周のラウンド旅行に出た事です。
トータルで18000キロの旅は病気になった時に同じラウンド旅行で出会った人
「日本人やドイ人に助けてもらったり、モンキーマイアという西オーストラリアのロッジでは、
オーストラリアの煙草メーカーのナイスガイにも助けて頂き、感謝の旅でした。

今の自分があるのはあの時あの人達に出会っていたからだと思います。
今は他人の事に構えない冷たい世の中かもしれないけれど、世界にはたくさんの人間が居て、
必ずあなたを支えてくれてる人達はきっといます。そして、あなたの支えを待ってる人も。。
これからワーホリに行こうと思ってる人達へ、人生一度しかないし、一生自分と付き合っていくのだから、
時間と情熱を注いでチャレンジしてください。
答えはそこにきっとあると思います。

なまいきなコメントですみません。

 オーストラリア体験談

掲載日:2005/6/20
ニックネーム = Yuki
国名 = オーストラリア
渡航年月 = 2004年5月

終わっちゃった〜。先月の終わり遂に帰国してしまいました。それは、日本をでて365日目の事でした。
本当に楽しかった。一言ではいえないくらい、いまとなれば色んな街に色んな人との出会いが埋まってるから、
でも私は大満足でした。
 思えば1年前、不安な気持ちを抱えながら、パースの空港に降り立ったっけな。
あの頃のあたしは今はもうどこにもいないよ。
 なんてったって、オーストラリア1周することができたからね!
ちなみにシドニーからニュージーランドに2週間だけ旅行にも行ってきたよ。
もちろん北島、南島両方制覇したよ!縦断したよ。
 パースで3ヶ月学生をして(今思えば3ヶ月は長すぎた、もったいない)
1ヶ月ダイビングのアドバンス(ライセンスはパースが一番どの州より安い)の免許に費やして
その間にパースの南を友達とレンタカーで1週間かけてぐるっとまわる旅行をした。
 ライセンスを取得した後、私はパースを離れ北にラウンド(ラリアを旅行すること)にでた
長距離バスの旅の始まりです。
 私はやはり東のオーストラリアより、あまり知られていない西のオーストラリアの方が好きです。
東は本当に観光地化されすぎてて、自然そのものの素晴らしさが色んなフィルターによって
希少価値が落ちてしまってる気がする。その点、西のあの手のつけられすぎていない大自然、
手がつけられないくらいの大自然には目をみはる。やはりオーストラリアの主はこんな大自然なんだなって思う。
 遥かかなたに見えるいくつもの、竜巻。ノーザンテリトリーに入るとブッシュファイア
(熱帯で乾燥してるところで勝手に発火する)に数回遭遇したり、天と地を結ぶ稲光。
バスの車窓から朝方見た手に取れそうなほどの星空。360度地平線。
言葉に表すことができない深い色の夕日が沈んだ後の地平線。
 日本にいたら、絶対見ることのできない壮大な景色に沢山出会い。
本当に素晴らしい景色は写真で伝えることができない、
そんな時はいつも脳裏にしっかり景色を焼きつける努力をした。絶対この景色一生忘れない!!って。
 そんな訳で、話し出すと止まらなくなっちゃうので、簡潔に、がんばろう。
でも、やっぱり何事も気になるならやっちゃえ!!って感じです。
人間的に旅を続けていくうちに、もう出来ないものはできないし。
なってしまったものはかわれないし。と色んな事でうじうじ悩むんじゃなくて、
Take it easy!的な前より気楽に楽しい自分に変わることができた。
 話はもどって、そしてブルーム。(インド洋のサンセットは最高)いまのところ私の中でオーストラリアで
いくつも素敵なサンセット見たけど、あえて順位つけるなら1位!ブルームのケーブルビーチのサンセット。
 そして少しづつバスで北上し、最後ダーウィンからケアンズに飛行機で飛んだ。
そこケアンズでは、現地人の間ではかなり有名な某日本食レストランで3ヶ月働き、
その間グレートバリアリーフでダイビングを満喫したりパロネラパークに行ったりと、
ケアンズライフを満喫した後、ケアンズを離れた。
そして少しずつバスで南下しながらゴールドコーストで友達にサーフィン教わったり。バイロンからニンビンに行ったり。
 そして、シドニーで友達のシェアハウスに2週間お世話になり。シドニーライフも満喫。
その後ニュージーランドに渡り、オークランドからクィーンズタウンまで旅行。
 その後オーストラリアにもどり首都のキャンベラまでプチ旅行した後、シドニーからタスマニアに飛びました。
そこの時点で、残り2ヶ月全財産はA$600(約5万5千円)をきっていました。
もともとフルーツピッキングの仕事目的でタスマニアに渡ったので、ホバートのバッパーで情報を探し、
ゲットして自分で電話をして次の日には、バスで目的地へ向かっていた。
 最初の3日間は日本人に出会うことはなかったけど、3日目にしてフルーツピッカーとして
日本人の女の子二人がその街に着た。
 かれこれ、そこで1ヶ月私はりんご摘みの仕事をした。
背が高い男の子(特にヨーロピアン)にはいい仕事だったけど(歩合制なので)チビの私には結構きつい仕事でしたが、
でも辛くても温かい仲間をあたしは手にいれたので今では楽しい思い出しか残ってない。
あの1ヶ月は私の人生の中でも、本当に不思議なそして素敵な1ヶ月でした。
ちゃっかり恋もしてしまったのでなおさらでしょうね!
 ある程度のお金を稼ぎ、ビザが残り1ヶ月をきった時私は、タスマニアから本土メルボルンに戻った。
ド田舎からいきなり大都会に戻ってきてショックだったけど、
メルは色んな国のカルチャーがかなり混じってるから楽しい街だった。
その後列車でアデレードに行き、そこからまた列車でアリススプリングスへ向かった。
ウルル(エアーズロック)を目指して。
 タスマニアで稼いだお金で、念願のウルルに行くことができた。ここでもまた、大自然に圧倒されるばかりだった。
でも個人的にウルル(エアーズロック)よりキングスキャニオンの方がお勧めです。
 その後アデレードに列車でもどり、パースまで2泊3日の列車の旅で私のオーストラリア1周は幕を閉じた。
約1年かけて念願の1週ができた。嬉しいことにタスマニアのピッキングで出会った好きな人が、
パースで私の列車の到着を待っていてくれてたりして。アウトまでのパースライフも本当に楽しかった。
 そんな感じで本当に語りだすと止まらない。でもワーホリ迷っている人がいたら、いけ!とまでは言わないけど、
自分が変わりたいと思って何かをはじめたら結果は後からついてくるので、
やはりチャレンジしてみた方がいいんじゃないかな。
 なんにせよ、自分もあれだけ不安だったけど、今じゃ英語圏ならひとりで旅行は余裕です(ウソです、いいすぎました)
でも、外人がきても今は恐くない。文法とか間違ってるかもしれないけど、英語という言語でお話できるのがむしろ楽しい。
大切なのは何でも楽しむ事だよね。
これも、ひとりでオーストラリアを1周したのも英語が自然と伸びた理由のひとつじゃないかなって思う。
 とにかく、素晴らしい1年でした。辛いことしんどいこと切ないことあった。でもそれ以上に楽しい思い出が沢山です。
私は言葉で説明するより、まず自分で飛び込んでみちゃって!っていいたい。人生やって無駄なことなんてないと思うからね。

 オーストラリア体験談

掲載日:2005/6/20
ニックネーム = yuka
国名 = オーストラリア
渡航年月 = 2003年4月

yukaと申します。私のワ−ホリはケアンズで始まりケアンズの終わりました。
そしてまた、4日後、ケアンズに渡豪します。訳は後程、、、。

私は大学3年修了時、休学届けをだし、4年生を休学するかたちでワ−ホリへ出発。
私は海外で働いてみたいという夢を叶えるために、ワーホリビザを取得しました。
そして、願わくば、英語を上達させ、日本での就職にプラスになればと思っていました。
最初の1ヶ月は、語学学校とホームステイ。
しかし、1ヶ月後には新しい家やバイト先を探さなければならず、
2週間が過ぎた頃、動きだし、3週目には次の家もバイトもとりあえず、決めました。
友達のhelpもあってのことでしたが、恐れしらずの行動力だったなと思います。
1つめののバイトが3ヶ月を過ぎる頃、一緒に働いていた子が、知っていると言う
新たなバイト先を紹介され採用。
2つめのバイトが終わる頃、これまた運よく、他の会社の方が、
私が3ヶ月満了すると聞き付け(オーストラリアは1つの所で最高3ヶ月までしか働けない)、
次ぎうちで働かないかと誘ってくれ、採用。
ワーホリは、人脈がものをいいます、まじで。そんなこんなで、11ヶ月の滞在の中、
3ケ所、計9ヶ月を「海外で働く」という目標とともに働く事ができました。

帰国後、復学。しかし、海外で働く経験をし、日本で就職という予定でしたが、
予定は未定という言葉があるように、将来海外で働きたいと思うようになっていたのです。
ワーホリで出会った人たちの中には、ワーホリ後、学生ビザで残り、就職を狙っている人が結構居ました。
でも、私は日本の大学生の身だったので、何百万のも貯金なんてあるわけない。
数年働いてお金ためて学校行って就職(ビジネスビザ)のチャンスを待とうとも考えました。
3つめの会社は働いていてとても充実でき、スタッフとも帰国後も連絡をとる中になっていて、
会社宛の近況報告の手紙もこまめに送っていました。(その時はビジネスねらいとかではなく)バイトをし、
学校の夏休みに格安航空券だけを手にケアンズの行ったりもしました。
なんか、自分がいたこと、働いていた事を忘れてほしくなかったっていうのがありました。
その夏休みの渡豪時、一緒に働いていたビジネスビザの子に相談しました。
すると、駄目もとでいってみれば?というのです。そうです、ビジネスビザをサポートしてほしいと。
まさか、OKなはずはないと、その言葉を半々に受け止め帰国。
しかし、周りはドンドン内定、内定、、、。「やってみるかな」と、私はペンと便箋を用意。
boss(社長)に手紙を書き始めました。しかし2ヶ月くらいたっても、返事はなく、
読んでいるのか、届いているのかさえ分りませんでした。
そして、卒論を出し終えた1月下旬。「こうなったら、乗り込んでいって直談判だ!」と再度貯金を崩し渡豪。
久々に当時のスタッフに再会。来た理由を話すと皆応援してくれました。そしてなんとかboss.と会える事に。
すると、「話には聞いていたよ。前に手紙だしたんだって?私の手元には届いてないよ。
でも今なら状況的にもビジネス出せるから、サポートしてあげるよ」と。「まじでぇーーー!!??」って感じでした。
しかし。それから日本とオーストラリア間でメールのやり取りをしながら、
やっとこの6月にビジネスビザがおり、社会人でビューをオーストラリアですることとなりました。諦めないで良かった。。。
ですから、ワーホリは、無限の可能性を秘めているなと思いました。
1年の休暇旅行という目的でいくのもよし。友達作りに行くのもよし。
ただ1つ言える事は、目的を持って行かないと1年はあっという間、もったいないって事です。
もしこれをみて、これからワーホリ行かれる方で聞いてみたい事、不安を聞いてもらいたいなどありましたら、
オーストラリア帰国者に載ってますのでメールください。
これからワーホリいかれる方のお役に立てればと思います。有意義なワーホリになるように、、、。

 オーストラリア体験談

投稿日:2002/12/17
ニックネーム = ハム太郎
email = strathfld@yahoo.co.jp
国名 = オーストラリア
渡航年月 = 1999年4月

 ちょっとワーホリの事を思い出してたら楽しくなってきたので書いてみようと思います。
暇つぶしに読んでみてください(注:役に立つかどうかは疑問です)。
 オーストラリアのワーホリに行こうと思ったのは、ネットで見たボンダイビーチが
キレイでしかもそこにはハーフパイプ(ramp?)があり、自分はスケボーと
インラインスケートやってたのでそこで滑りたいっ!と思ったのがきっかけでした。ただそれだけです。

 とりあえず渡豪後3ヶ月英語学校に行き、最初の1ヶ月はホームステイもしました。
ホームステイの初日にどうしてもネットで見たあのボンダイビーチに行きたくて、
英語はまったくわかりませんでしたが、精一杯の英語を使ってボンダイビーチまでの行き方を
ホストマザーに聞くとなんと1時間はかかるとの事。でも頑張りましたよ〜、
家の前からバスに乗るんですけど、あっちのバスって、、乗りますよ〜ってサインを出さないと
バス停にいるのにもかかわらず止まってくれないんです、、。アレには参りました。
やっと次のバスに乗りタウンホールで下車。で、バスに乗ってる時に思ったんですけど、
バス停に名前が無いんですよね、だから自分がどこで降りるか覚えておかなきゃなんですよ。
ちょっとカルチャーショックでした。そしてタウンホールから電車に乗るんですけど、
どの電車に乗っていいのかわからず、しかも何て聞けばいいのかもわからず、
とりあえず俺は海に行きたかったのでサーフボードを持ってる兄ちゃんを尾行する事に。
そしたら到着しちゃったんですよ〜、ボンダイジャンクションに。で、
そこはまだ海じゃなく電車の終点なだけなので更にバスに乗るんです。
そしてタウンホールから電車に乗るんですけど、どの電車に乗っていいのかわからず、
しかも何て聞けばいいのかもわからず、とりあえず俺は海に行きたかったのでサーフボードを持ってる
兄ちゃんを尾行する事に。そしたら到着しちゃったんですよ〜、ボンダイジャンクションに。
で、そこはまだ海じゃなく電車の終点なだけなので更にバスに乗るんですが、そこでもまたその
サーファーの兄ちゃんを尾行、、、バッチリでしたっ、ネットで見たボンダイビーチに着いちゃったんです。
今思えばかなり大きな賭けだったと思いますが、、その時はいっぱいいっぱい(汗)だったんで
そんな事思いませんでした、、。いやお恥ずかしい、、。
 学校はちゃんと行ってましたよ、でも学校の後は毎日ビーチに行ってスケートしてました。
何か毎日行ってるうちにオージーの友達がどんどん出来て、皆趣味を通じた友達だったので
すんなり仲良くなれました。俺のわけわかんない英語も指摘してくれたり、
やっぱ地元の奴らと行動を共にする訳だからこっちも話さなきゃいけない状態だった訳で、
初めはほとんどわからなかった英語もかなりのスピードで上達したと思います。
帰国してから3年弱ですがいまだに連絡取り合ってますよ。1年に1回〜2回は遊びに行ったり、
逆に向こうから来てくれたり、一生友達でいられそうなかんじです。
これからワーホリに行く方も良い友達がいっぱいできるといいですねっ。
 で、その友達が教えてくれた事をいくつか紹介しましょう。
やっぱり現地の人は日本人は金持ちって言うイメージが相当強いらしく(俺は超貧乏でした、、悲)
かなり金をたかって来ます。たかられる位ならいいんですけど、時には金出せ!
位の事も言ってくるのでそうなった時の為にお金を沢山持ってる時は靴の中に入れろって言われました。
そのおかげで何度か自分自身助かりました。あとは〜暗くなってからの公園は行くなって言われましたね。
実際友達(日本人)がハイドパークにてナイフを突きつけられて1000ドル程やられました。皆さん気をつけましょ〜。
 まだまだ書きたい事いっぱいあるんですけど、いっぱいありすぎで読んでる(読んでくれてる?)
人が大変なのでこれ位にしときます。まぁ、たま〜に怖いこともありますが、シドニーは楽しいっす。
って言うよりも1年間シドニーから出なかったんですけどね、、。
だからシドニーの事しかわからんのです。1番遠くに行ったのでも車で2時間位のウーロンゴン、、、。
 それじゃあ皆さん楽しいワーホリ生活を堪能してくださいっ。

 オーストラリア体験談

投稿日:2001/09/09
お名前(実名にて) = 山本完一
ニックネーム = KAN
email = pits@pearl.ocn.ne.jp
開始年 = 1990年

KANの旅日記〜ダーウィン〜ケアンズ編〜

1990年6月僕の青春の思い出ダーウインでの滞在ももう1ヶ月が過ぎようとしていた。
ダーウインでの日本人も当初は僕に潤さんそれにイギリスから一人旅をしていたBOBBYこと
にわよしゆきの3人しかいなかった時と比べるとすごく日本人が膨れ上がっていった。
毎日がとても楽しかったし、まさに青春の日々だった。
毎日ユースのキッチンでみんなで一緒にご飯をつくる。
朝も、昼も、夜もいつも一緒。まさに若いからこそ出来たんだ。1990年。当時僕はまだ21歳。
本当にわかかった。あのころが懐かしい。何にたいしても一生懸命。しらないことばかり。
毎日新鮮な出会い。そしてわかれ。
ユースでの共同生活。毎週木曜はみんなでフリーマーケット。
夜は毎晩本当に4時、5時まで話していた。
本当にトイレにいくのも惜しいぐらいに・・・・・・
もし2時ぐらいにでも寝ようものならすぐに潤さんに言われる。
「KANさん、まだ2時代ですよ。いいじゃないですか?もっと話しましょうよ。」
そうだ。僕たちは本当に毎晩、毎晩深夜まで話し込んでいた。
気づけばそのトークにみんなは惹きつけられ、ダーウインにどんどんたむろしていくようになった。
気がつけば愉快な日本人軍団を20名以上形成していた。
本当に楽しい集団が増えていった。
途中で、僕のパースでの師匠の中辻さんも合流してきた。彼とは僕がパースでの滞在時代に出会った人だ。
当時僕はまいにちの英語学校とホームステイの往復に飽き飽きしていたところだった。
英語学校では骨のある人に出会わないし。ホームステイにまっすぐ帰るのも面白くない。
そこでよくパースの中央郵便局(GPO)の前でたむろしてから帰っていた。
その時中辻さんと出会った。ものすごく大きな関西弁で日本人をあいてに熱弁していた。
僕はGPOに響き渡るあまりにも大きな彼の声にびっくりした。それと同時に彼のカリスマにもびっくりした。
そこで彼にこれからの旅の不安を話した。既に僕の全財産が3000ドルもないこと。
まだワーキングホリデー生活が10ヶ月以上ものこっていること。オーストラリアを一周したいこと。
まだ英語がほとんど出来ないこと。日本でも旅らしい旅をしたことがないこと。
でも彼はすぱっと言い切った。「3000もあるんなら俺なら車をこうてまわるな。余裕やんけ!!」
なんの根拠もなかったが彼の言葉が僕に大きな勇気を与えた。
その中辻さんがウエスタンオーストラリアをすざましい旅をされ、ダーウインにも合流してきた。
そういうこともあってダーウインは本当に盛り上がっていた。

――――――――――――――――――――――――――

でも時折僕は当初の目的を思いだしていた。
僕は何故オーストラリアに来たのか?何故ワーキングホリデーなのか?そうだ。自分を変えたい。
何か新しいものを見つけたい。オーストラリアを一周したい。ファームステイがしたい。
アイランドステイがしたい。タスマニアに行きたい。ダイビングの免許がとりたい。インディアンパシフィックに乗りたい。
そうだ。僕はまだ何も出来ていない。
そうおもった。確かにダーウインは魅力だ。仲間も魅力だ。でもここでの生活ももう1ヶ月ちかくが過ぎようとしていた。
そうだ。僕の当初の目的があるんだ。出発しよう。
ノーザンテリトリーのヒッチハイクは危険と難しさの極みだ。
仕方なく僕はバスで次の目的地タウンズヒルに向かうことにした。
トランジットセンターにケアンズまでのバスのパスを買いに行った。その区間は全て期間はフリーだ。
僕は2日後に出発を予約した。それでダーウインのみんなに出発を告げた。
みんなから別れが辛いといわれまくった。僕も辛い。
誰も僕が本当にダーウインを出発するとは思っていない。
僕はあまりにも出発がつらくて出発日の変更をした。いわゆるバスのキャンセルだ。
そこから約出発2週間伸ばすはめになった。バスのキャンセルは合計5回になった。
遂に僕は出発しようと心に決めていた。あとから来た僕の師匠の中辻さんは資金がそこをついて
ゴールドコーストにいくといって出て行った。ゴールドコーストにはサーファーズパラダイスというリゾートがある。
そこにいけばいくらでも仕事はあるという。
中辻さんの出発の前にもみんなでうどんをつくった。そう面からである。
ユースホステルのキッチンでみんなでつくったんだ。
あの強気な中辻さんも出発の時には泣いていた。
中辻さんも出発した。潤さんとBOBBYはダーウインに滞在を腹に決めている。
僕は僕のプランがある。遂に僕は出発日を予約した。今度こそ、キャンセルはしない。絶対に出発してやる。
僕の意思は固かった。みんなとの出会いは最高だったし、おもしろかったけど、
僕には僕のワーキングホリデーであるんだ。
僕の出発前の晩20人ぐらいの日本人の仲間のほとんどが泣いていた。
KANさんいかないでくれ。KANさん頑張って!!どうしても行くんだね。

――――――――――――――――――――――――

翌朝、遂に僕の出発の時が来た。
僕はバックパックに荷物を詰めトランジットセンターのバスターミナルに向かった。
遂にみんなとお別れである。が・・・・・・・・・・僕はバスターミナルで愕然とした。
ななな な〜〜〜〜〜〜んと僕の予約がないではないか??????
なんと向こうの予約ミスで翌日にとられていた。
みんなは大喜びした。「KANさんは本当にダーウインを出れるのか?もうずーっといればいいやんか?」
結局僕は次の日に出発することにした。これでキャンセルは6回目だ。
その日の晩も僕らはいろいろ話しをした。みんなが泣きまくった。
同じ仲間の葉子さんも出発することになった。
彼女は一人で出発するには辛すぎたらしい。彼女はダーウインで恋をしたが相手の男性は振り向かなかった。
彼女の愛情は充分にかんじていたが・・・・・・・葉子さんは出発前の日のみにのみまくった。
喋りにしゃべりまくった。泣きに泣きまくった。

―――――――――――――――――――――――――

とうとう出発の朝がきた。今度はバスの予約も間違っていない。出発が刻一刻と近づいてくる。
最後は僕の好物のカレーライスをみんながつくってくれた。
最高に美味かった。出発の時間が遂に来た。僕はバスに乗り込んだ。
葉子さんものりこんだ。彼女は乗り込む瞬間に彼女が惚れていた男性に思い切りキスをした。
そうみんなのいる前で。僕はバスに乗り込んだ。遂にお別れだ。が・・・・・・・
その時、何か音楽が聞こえてきた。日本語の・・・・・・・・・そう僕の大好きな浜省だ。
潤さんがラジカセに浜省のアメリカをかけてやって来た。
僕は泣けてきた。浜省のアメリカは大好きだ。
♪ロスからサンフランシスコへ続くフリーウエイを俺たちヒッチハイクした1984.
彼女はダンサーニューヨークで踊る日を夢みてた。おれはただ東京から逃れたかった。
WE ARE LOOKINGFOR AMERICA映画の中のアメリカンドリーム♪
そして遂に潤さんもバスを降りた。遂にバスは出発である。
そしてダーウインの街をバスは出発した。
始めの曲がり角までの約1kmぐらいに距離をダーウインの仲間、約20人はバスが曲がるまで
本当に全力疾走で走ってきた。横断幕がみえる。KANさんいかないでくれ。もう一度キャンセルだ〜〜〜〜。
だんだん彼らの距離と僕の距離が離れていく。そして曲がり角を曲がって彼らは見えなくなった。
僕は涙で顔がボロボロになっていた。何故僕はダーウインをでるのだろう。彼らを置いて。
本当に最高の仲間を残して。

――――――――――――――――――――――

バスは数十時間走ってタウンズヒルについた。
そこで僕に二人に日本人女性が話しかけてきた。
2人でオーストラリアに観光で3ヶ月ぐらい会社をやめてきたのだという。
恐らく年は23,4だったと思う。彼女達は旅のエピローグを迎えようとしている時期だった。
ちょうどダーウインからの同じバスに乗っていたみたいだ。
それでいわれた。「あなたを追いかけていたのね。あの大勢の日本人の人たちはいったいあなたは何者?」
ということで僕のダーウインでのヒストリーを話した。
彼女達はびっくりしていた。自分達とこんなに違う旅があるんだということに・・・・・・・・・
彼女達はオーストラリア一周を胸に3ヶ月駆け足で旅をしてきたらしい。
達成感はあったが感動はさほどなかったらしい。
でも僕はちがった。何回もの感動をしている。
彼女達は僕にこう言った。「必ずもう1回オーストラリアに来ます。
そしてあなたのようなワーキングホリデーをしたいと思います」
彼女達は僕のワーキングホリデーでヒストリーに涙していた。
初対面にもかかわらず。でも僕はここで満足しているばあいじゃない。
素晴らしい仲間を置いて自分の目標の為に旅を
再会したんだ。
でももう仲間は一人もいない。そうたった一人だ。
僕は大きな期待と少しの不安を胸に次の目的地ケアンズに向かった・・・・・・・・・・
次はケアンズ編を予定です。お楽しみに。

尚僕のこの旅日記をライブで聞きたい方はメールください。
お洒落なBARでもしくわレストランで。あるいは僕の家で話ししましょうよ。
夢トーク最高ですよね?あなたには夢がありますか?そしてその夢を本当に叶えたいですか?
そしてそのための手段はありますか?

興味のある方はホームページにきてくださいね。
メールいただければ返事も100%です。
http://maptour.gaiax.com/home/pitskanichi
    

 オーストラリア体験談

投稿日:2001/03/09
川本千春
ニックネーム = 千春ちゃん
email = chihawave@hkg.odn.ne.jp
開始年 = 1999年

体験談 =  大学4年の冬私の就職活動はワーホリのビザを取ることでした。何とか本で
調べて卒業までにビザを取り後はお金を作るのみ。半年間バイトでお金をため、
超低資金で出発しました。最初は知り合いの知り合いという遠いつてでホームステイ。日本人
の奥さんだからあまり勉強にならず、旦那には Speak Engrishu!といつも言われ、もともと
英語が出来ない私には、英語のに気がおかしくなりそうでした。
 私が住んだところはシドニーの郊外でマンリーという海の綺麗なサーフィンのめっか。
マンリーに住む人は、なかなかマンリーを離れないといわれてるくらい超〜いい所。私もどっこにも
いかず、ずっとマンリーにすんでました。マンリーバカといわれてた。で、毎日毎日海に入って波乗り&パドルしてました。
っていうのも、私はなにを隠そうライフセーバー。トレーニングのためにマンリーへいったのです。
で、向こうの資格もとって、AGと共にビーチをパトロールしたりしてました。え、英語が出来ないのにどーして出来るの!?
と思っているでしょ?まあ、何とかなるもんでね、ホンと何とかなっちゃった。英語は、少しでも出来たほうがいいけど、
心配している人、まあ何とかなるよ!
 家も新聞で、いっぱいシェアのことが載ってるから何とかなる。私は向こうで知り合った友達の紹介でオーナーの住んでない
一軒家に5人ですんでました。(ホームステイは3ヶ月した。)
 仕事は、オープン寸前の日本食レストラン(チャイニーズオーナー)にずかずか入っていってバイトさせて下さい!!
て感じで決まり自給$8でやってました。
 ワーホリいって一番感じたことは、日本がとっても冷たくて、そっけなくて、せかせかしてるということ。
だって、こんな駆け込みバイトいまどき日本でないでしょう?ピアスしてマネキュアしてお客さん(ほとんどAG)から
まあ綺麗!!なんてお店ないでしょう?日本人どうしでも、見知らぬ人に親切だし、皆心が大きくなるみたい。
だから、心配しなくても、同じようにワーホリ行こうと思ってるひとの集まりだからすぐ友達になれるんですねえ。
待ち合わせしなくても同じ時間に海で会う人、バスで会う人、パブで会う人・・・
何とかなるという開き直りこそ成功する秘訣だと思う。
一生を左右する友達に必ず出会うはず!そして、日本を改めて考えるはず!
 向こうに行けば情報なんてすぐはいるから、とりあえずは行くべしって感じ。一生で1番長くて短い生活がまってます。
日本に帰ってくると、現実に引き戻されたって感じがするよ。けど、確実に自分の何かが変わると思います。
 私は、マンリーお勧めです。ラウンドでもいいから、1度は訪れて下さい。
そして、泉japanese ResTaurant によってみてください。分からないこと、質問、いっぱいまってま〜す。 
ちなみに私は10月にマンリーへ舞い戻るよ!!
    

 オーストラリア体験談

投稿日:2000/09/23 お名前(実名にて) = 金井弘美
ニックネーム = おかん
email = kanai-yh@sunfield.ne.jp
開始年 = 1985年

はじめまして。
4年前シドニーのノースボンダイで、オーペアをしていた『おかん』と申します。
オーペアというのは<住み込みで(食事と部屋付き)ママの手伝いをしながら、
おこづかいももらえる>というものです。「なぁんだ、ママの手伝いなら簡単じゃん。」
なんて思われるかもしれませんが、小さい子供のいる家庭などは結構大変ですし、決して楽ではありません。
中にはお手伝いさん扱いする家庭もあります。幸い、私が住む事になったファミリーは仲間のオーペアの
中でも一番評判の良い優しいオージー一家でした。が、ママが自分のお店(エステサロン)を持って
いるので忙しく、おまけに料理も苦手なので、仕事量は一番多かったです。朝は小学生の二人<8歳、
11歳>の簡単なランチ作りに始まり、洗濯、ゴミ捨て、朝食の用意&後片付け、全員分のベッド
メイキング、小学校への送り(車で)、末っ子<2歳>の着替え・・・。など午前中だけでも結構やる事が
あります。私の朝食はそれらが全て終わった後。(食べていると末っ子が『僕も僕も』などと、
さっき食べたくせに欲しがったりする。でもカワイイから許しちゃう!)
午前の仕事が終われば、午後の3時まで自由時間。週に一度は、末っ子を一日中面倒見る日なので
出掛けられませんが、他の日はファミリーの犬を連れてボンダイビーチに散歩に行ったり、
一人で街を探索したり、他のオーペアの子とお茶して家事の愚痴をこぼしあったり、日本人向けの
情報センターに行ったり・・と出掛けまくります。そして午後。洗濯物を畳む事に始まり、
アイロンがけやシーツ交換、子供達のピック、末っ子のお風呂入れ、夕食の支度&後片付け・・・と、
ほとんど専業主婦です。よその家、こんなにオーペアの仕事ありませんよー。トホホ・・・。
特に、夕食は美味しく作らないとみんなが食べてくれないのでとても気を使います。
でも、ママが日本食好きだったので色々作らせてもらい、私にはうれしい限りでした。
みなさん、ここまでで何か気がつきましたか?そう、ママは家事のみならず、末っ子の面倒も
私まかせなのです!食事から着替え、遊び、お散歩&お昼寝、お風呂、みーんな私。ママはかわいがるだけ。
はっきり言って、こんな小さな子供をつたない英語で面倒見るのはホント大変でした。グズるし、
お風呂は嫌がるし、言うこと聞かないし、一人じゃご飯食べないし。
<あんなにかわいがっても、彼はもう私を覚えてないでしょう・・・グス>
でもオーペアがいるおかげで、ママはいつも明るく、パパともラブラブでいられるんですよね。
私もお金持ちなら、こんな生活したいです。大変だったけど、あのファミリーでの思い出は私の宝物です。
みなさんもオーペア、いかがですか?
    

 オーストラリア体験談

投稿日:2000/08/15
お名前(実名にて) = 依光智子
ニックネーム = tomo
email = jazoo5@hotmail.com
開始年 = 1999年

体験談 = 今年の3月から半年間ゴールドコーストへ行っていました。
目的は、しいていえば語学だったんですが、学校へ行かずに英語圏のシェアメイトと
住んでましたので少しですが話せるようになりました。

仕事はニールセンの入力業務を数週間と、貴婦人でホステスを2日だけやりました。
入力は$7/h、水商売は$13/hくらいだけどお客さんがいなかったら$9/hで、
そこから30%ひかれたのでめっちゃ安い給料(2日・10時間で$70)
だったので2日でやめました。
仕事内容は韓国や中国人が多いみたいで、日本のそれよりは比較的楽でした。
あと、観光客相手だけのプロポリスの販売もやりました。
これはお客さんの前でいろいろな説明をするのでセリフを覚えないと給料もらえないんですけど
オーストラリア特有の仕事だったので楽しかったです。これは$10/h。
だけど旅行会社からの依頼がないと仕事がないし、あっても1日2時間で$20。
週に1,2回しかなくて食べていけないのでこれも1月くらいでやめました。

あと、日本人以外と友達になって楽しく過ごしたいのであれば、シドニーで英会話学校に
2ヶ月間通ってからゴールドコーストへ行くのがいいと思います。
私はゴールドコーストしか行ったことないんですがG.Cは語学学校へ行ってもあんまり
上達しないみたいです。やはりここは遊ぶところって気がします。
その点シドニーは語学目的で来ている人も多く、みなさん
まじめに取り組んでる方が多いらしく、友達は2ヶ月でけっこうぺらぺら話せるように
なってましたから。やっぱ話せないと友達ができても楽しい会話ができないしつらいです。
話したいけど話せないって、これはとってもくやしいですよ。

あんまりワーホリらしいことはしてないので参考になるかどうかわかりませんが、
ゴールドコーストのお店なんかをのせていますのでよかったらHPに
遊びに来てください。
http://www.skyboom.com/juicy/
    

 オーストラリア体験談

投稿日:2000/02/28
お名前(実名にて) = 八重樫清史
ニックネーム = きよ
email = kiyoshiyae@hotmail.com
開始年 = 1997年

体験談 = ワーキングホリデー (旅をしながら働くこと (某TV番組じゃないぞ))
 3年前の冬の始め(向こうでは夏の始め)にワーキングホリデーのためにシドニー(オーストラリア)
渡航するが、所持金は30万円のみ!!思いきって20万で車を購入するが(無謀?)、所持金が尽き
車の中での生活に・・・ トホホ その後ツアーガイドの仕事を見つけ、そこに籍を置く。
お金が少し貯まったところで海の見える一軒家にシェア(共同生活)する。ちなみに家賃はA70$
(オーストラリアドル)。そして頼れるものはなくなんとか生活費を稼ぐため、その年の暮れに自ら
会社を起こした。(車の書類手続や名義変更、保険などの同行通訳としてビザをワーキング(就労ビザ)
に変える)その後しばらくして市内に引越しイギリス人とのシェア。帰国前にこの国を改めてすごい国だなぁ
と思いながら車で半周し、その後名残惜しむも帰国。オーストラリアは僕にとって世界一住みやすい世界だ!
理由は気候、食べ物、きれいな海、大自然、そして家の家賃。(笑)その中で最も素晴らしいのは
オージー(わかるよね?)の心。それは人のことを悪く言わずおおらかで誰にでも気軽に話しかけてくれから、
一人で旅したり飛び込んで行っても全然寂しくない。ワーキングホリデーは僕個人的な意見(みんなの意見?)
だけど、必ず得るものがあるし、それに何にも変えがたい思い出になるでしょう。もっと聞きたい方
メールください。
    

 オーストラリア体験談

投稿日:2000/02/05
お名前(実名にて) = 佐藤 由紀
ニックネーム = ガチョーン
email = snowsugar@excite.co.jp
開始年 = 1994年

体験談 = キャンベラの友達の家に少しお世話になってから、ファームステイーをしたり、
英語と日本語教師の勉強をしながらNANNY(家政婦)を住み込みでやったり、
フルーツピッキングなどを住み込みでやったり、WOOFというEXCHANGEで
牧場で働いたりしたあとに、4ヶ月くらいシドニー〜メルボルン〜アデレード〜
パース〜ダーウィン〜エアーズロック〜アデレードの経由でラウンドしました。
ビジターズブックで私のニックネームを見たら連絡ほしいです。

 オーストラリア体験談

投稿日:1999/05/21
お名前(実名にて) = 山本完一
ニックネーム = かんちゃん
email = pits@pearl.ocn.ne.jp
開始年 = 1990年

G'DAY MATE!! はじめまして、大阪のかんちゃんこと、山本完一です。
僕は1990年の3月〜1991年4月まで、オーストラリアにワーホリで
滞在していました。出発前は大学生をしていました。ですから大学を1年間
休学するといった形で出発しました。現地でどういう流れで、滞在していたのかを
ご紹介しますので、これから行かれる皆さんは、是非参考にして下さいね。

1990.3 パースイン。ここで、ホームステイをしながら、2ヶ月間英語学校に通う。

1990.5月末〜ウェスタンオーストラリアをバスにて旅行する。パース〜カナ−ボン、
モンキーマイヤー、シェルビーチ、エクスマス、ブルーム、キャサリン。
キャサリンからは、イギリス人2人と日本人の直美さんと共に、自動車で、アリススプリングス
エアーズロックへ。 そこからバスにてダーウィンへ。

1990.6月〜7月末 ダーウィンでだらだら過ごす。しかし、ここでとても愉快な仲間
と出会う。彼らと共に、フリーマーケットでおにぎり屋を出店する。

1990.7月末〜8月末 ケアンズに滞在。ユースホステルで過ごす。この間にダイビングの
ライセンスを取得。

1990.8月末〜12月中旬 グレートバリアリーフのど真ん中のハミルトンアイランドで
働く。ショップアシスタント&アクテビテイ関係の仕事。オーストラリア人4人とシェア。

1991.12月中旬〜1月末 ゴールドコーストのサーファーズパラダイスに滞在。
日本人の友達と毎晩パーテイ−の日々を過ごす。昼間はビーチでのんびり過ごしていた。

1991.1月末〜再び旅行スタート。シドニー〜メルボルンを経て、タスマニアへ。
1ヶ月かけて、タスマニアをヒッチハイクで1周する。

1991.3月末 アデレードからインでイアンパシフィックでパースへ戻る。
最後1ヶ月パースで過ごす。

1991.4月10日 大学に復学する。

とまあ、こんな感じです。この体験は僕にとってとても貴重な経験となったのはいうまでも
ありません。その後、1997年に3ヶ月、再びパースを訪れています。
近い将来、オーストラリアと日本の半々の生活をしようと、計画しています。
これからオーストラリアに行こうと思っている皆さん、僕で良ければ、いつでも質問メール
くださいね?僕もこれから行かれる人達と交わる事で、わくわくしたいです。
    

[←前ページへ戻る] [↑ホームへ戻る] Copyright(C), 1998-2008 WH ASSOC. All rights reserved.